今日の神言

 れと我が心磨かば世の中の やがて清めの一つとやなる

聖地ご案内

聖地の四季

大和山の自然:聖地の春
大和山の自然:聖地の夏

松緑神道大和山本部は、青い森鉄道小湊駅から12kmほどの山間に位置しています。
春は花、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪と美しい自然のふところに抱かれており、「神垣の里」と呼ばれています。
境内は約2,000ha(約2,000町歩)の広さがあります。およそ4km×5kmくらいの広さで、東京都の港区とほぼ同じ面積、教団本部のある平内町の約一割を占めています。
この辺一帯は、昭和40年頃まで大規模な伐採が行われ、手入れもされず、裸山状態でした。そのため、昭和33年と昭和41年の2度にわたり、大きな水害にみまわれました。 そこで、昭和44年に大和山が境内地として取得し、植林・森林整備事業を進め、現在のように緑豊かな山々になりました。
平成7年には、林野庁主催の 「水源の森百選」 に 「青垣の山」として選ばれました。

大和山の自然:聖地の秋
大和山の自然:聖地の冬

聖地ご紹介

境内案内マップ

石碑(いしぶみ)

石碑 神垣の里神垣の里(かみがきのさと)
教祖は、ここを地の高天原と礎を置き据えました。初代教主 田澤康三郎(法名:大和小松風)は、その内容を具体化し充実させるために、実に30余年の歳月を捧げ、それを「神垣の里」と宣言しました。 世情が変わっても、世は乱れても、ここにこそ人間社会の真の生き方があると宣言したのがこの石碑です。

石碑 自他力本願(じたりきほんがん)自他力本願(じたりきほんがん)
教祖は、長い修行によって到達した悟りを「自他力本願」の5文字に集約しました。
初代教主は、これを宣揚せんとして、その大文字を石碑に深く刻まれ、境内の入口に宣示しました。
ここ大和山は、この5文字を宣揚せんとする道場です。

神集閣(しんしゅうかく)

神集閣(しんしゅうかく)平成元年に着工し、平成6年(1994年)に落慶した、地上4階、地下1階の大神殿です。 1階には、事務処理を行う「教務室」「会議室」などがあり、2・3階には、2,500名収容できる多目的ホールがあります。

ご神木(ごしんぼく)

ご神木(ごしんぼく)教祖が「大木上に神いますと信念して礼拝すべし」との神命によって『神木』と定め、水行時、奥宮拝り、山の上り下りに神木を礼拝することとしました。
神木として礼拝してより、教信徒間に種々の霊的不思議が見られました。樹齢、約370年の栃の木です。

石庭(せきてい)

石庭(せきてい)大正13年(1924年)に教祖が制作しました。この頃の大和山は、まだ教祖が修行していた時期です。
このあたり一帯は、深いやぶに覆われて、人馬の往来もまったくといってよいほどありませんでしたが、教祖は、将来の大和山はこうなると構想し、それを表現しました。 見えざるみ神の経綸のもとに、教祖の構想は着々と実現されています。

教祖天小屋(きょうそあまごや)

教祖天小屋(きょうそあまごや)教祖手造りの掘立小屋で、職人の手の入っていない素人細工です。教祖の修行の原点となった小屋です。
大正8年(1919年)旧8月23日に
「明日はわが命日なるぞよ。われは月の神なるぞよ」
「この星は九曜の星という神であって、われ神に使われる神なるぞよ。なんじの一生一代を護る神なるぞよ」
との霊声と、教団の神紋となった光の現象を拝した場所でもあります。
現在保存されている天小屋は3代目のもので、最初はご神木の所にありました。その後、現在の場所に大正8年に移動し、再度、大正13年(1924年)旧9月1日から天小屋の建て替えをはじめました。なぜこの天小屋を建て替えたか、どんな精神で建てたかという由来が、天小屋の壁書に「教祖の理想とする地上の平和を実現するには、66年の歳月を必要とする」と書き記してあります。その写り事として、教祖天小屋を33日間で建て替え、起居に必要な他の建物5棟(浴場・便所・物置・水行用脱衣場2棟)を33日、あわせて66日間で完成させました。そして、

『金銀の殿より神は誠なる 木の丸殿にも神の住むなり』

という神歌を頂き、教祖は「このような荒屋であっても、誠の心があれば正しい神を迎えられる」と悟りました。この小屋を建て替えた時にも、材料は釘1本、柾(まさ)1枚も無駄にする事なく、再建しました。それは、神が世の中を立替えるというのは、よく言われるように末法の世になると人類が滅亡するというようなものでなく、悪人でさえも神の教えをもとに、その心に明るい光が射し込んで人間ひとりひとりが自分の心を立替えて、平和な世の中にするという悟りだったからです。
また、この天小屋の屋根には、12対の交叉した千木が載せてあります。それは教祖が大正8年~昭和6年の12年間、弟子もとらず、説教もせず、一切の収入を絶って修行することを、神に約束した誓いのしるしを表したものです。
昭和30年9月に上屋が新築され、現在は令和2年8月に改築した上屋の中で保存されています。

奥宮(おくみや)

奥宮(おくみや)大正8年(1919年)旧4月12日午後3時、奇しきみしぐみのもとに、一介の商人・田澤清四郎(教祖)を発起人として小さな堂宇が奉安されました。
現在は、鞘堂の中に当時の堂宇が保存されてあります。
教祖がその宗教心をあかあかと燃え立たせた結縁の日としてこの日は記念され、「教祖さま入山記念日」として教団の祭事が毎年厳かに執り行われます。

不動滝(ふどうだき)

不動滝(ふどうだき)奥宮の礼拝を済ませてもとの参道に戻ると、すぐそばに信者の修行(水行)場である不動滝の瀑音が聞こえます。
教祖はこの飛瀑に身を打たせ、修行の願いを「神・国・君と人のため」と定め、熱祷しました。
教祖の修行の跡を追懐しながら、落下する水に打たれつつ一念こめて祈念祈願する水行は、大和山独自の作法として欠くことのできない修行です。

萬霊殿・和光殿(ばんれいでん・わこうでん)

万霊殿・和光殿(ばんれいでん・わこうでん)尊祖堂・供養堂の延長で、慰霊・供養祈願書の願主名簿を年に一度収納する堂宇です。

皇御祖之宮(すめみおやのみや)

皇御祖之宮(すめみおやのみや)教祖は日本国に負わされた重い平和の使命を確信して「日本が平和にならなくては世界が平和にならない」と力強く説きました。
そのためには、五穀の豊穣と国土の安泰を祈願しなくてはならないとして皇御祖之宮を奉建しました。
昭和46年(1971年)建立。伊嵯那岐大神(いざなぎのおおかみ)・伊嵯那美大神(いざなみのおおかみ)を奉斎。

神城(しんじょう)

教祖は、ここ本部聖地に地上の神の都(地の高天原)を建設しようという理想(理想社会のモデルとする構想)を抱き、教典に書かれてある神の国を模範として、神城を建設しました。
そして、単に神の世界の形のみを地上に写すだけでなく、神のみ心にならって、教えをすべての人々に広め、地上の楽園を建設しようと念願しました。神城には、こうした教祖の悟りと願いが込められています。
また、大和山では一柱の神をお祀りしているのではなく、八百万の大神(やおよろずのおおかみ)とその親神(宇宙の統神(すべかみ)/天空三三三(みろく)の大神と伊嵯那岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊嵯那美大神(いざなみのおおかみ))を総称して、『大和山大神』として祀っています。
その中でも特に位の高い神を迎る場所として神城が作られました。このような「神城」が、境内に6つあります。

神城:神集城(しんしゅうじょう)神集城(しんしゅうじょう)
八百万の大神が一堂に会される場所として昭和31年(1956年)に建立されました。
教祖の「時節が到来すれば、世界の諸宗教は一丸となって人類の救済と平和のために尽力する日が来る」(萬教同根・萬教帰一・宗教協力)との悟りと、大和山の教えのシンボルです。

神城:照輝城(しょうきじょう)照輝城(しょうきじょう)
昭和46年(1971年)建立。正神第1位の天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を奉斎。
陽が照らすように、神の愛と光がすべての人々に振り注がれ、世界が平和になるようにとの願いを込められて作られました。

神城:荒風城(こうふうじょう)荒風城(こうふうじょう)
昭和30年(1955年)建立。正神第2位の大国常立大神(おおくにとこたちのおおかみ)を奉斎。
大国常立大神は、国津神界(龍神)の頭の神。国祖、地球創造の祖、地の祖神。

神城:千吹城 (ちぶきじょう)千吹城 (ちぶきじょう)
昭和31年(1956年)建立。正神第4位の国沢土大神(くにさわづちのおおかみ)を奉斎。
国沢土大神は、不動尊の頭の神。
国沢土大神は、大国常立大神と豊雲野大神の子の神。

神城:豊雲野城(ほううんやじょう)豊雲野城(ほううんやじょう)
昭和31年(1956年)建立。正神第3位の豊雲野大神(とよくもぬのおおかみ)を奉斎。
豊雲野大神は、大国常立大神の妻神。

神城:緑野城(りょくやじょう)緑野城(りょくやじょう)
昭和31年(1956年)建立。正神第5位の大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)を奉斎。
大山祇大神は、山の神の頭の神。大和山の主宰神。

五光館(ごこうかん)

五光館(ごこうかん)立教60年(1978年)の記念事業として建設されました。
五光館の北面には、教祖が昭和6年(1931年)に制定した「殉道の教章」を両側から鳳凰が抱く形にして掲示してあります。初代教主 田澤康三郎(法名:大和小松風)は、これを受け、鳳凰が両翼を張る図南の勇姿を五光館全体の格好に表現しました。
現在は、教団講師の宿舎並びに信徒宿舎として使用されています。

教祖記念館

教祖記念館:松籟の館(しょうらいのやかた)松籟之館(しょうらいのやかた)
立教66年祭(1991年)、教祖生誕百年祭の記念事業として建設されました。
内部には、比叡山延暦寺から分燈いただいた「永遠の燈火」(えいえんのともしび)と教祖の書や遺品が展示されています。

御神水屋(おみずや)

御神水屋(おみずや)御神水屋
ご神水は、奥宮の左の沢から湧いていた水で、はじめは御手洗(みたらし)として使われていました。それを信者が瓶に詰めて持ち帰ったのが始まりで、後に、教祖が「山吹の水」と命名しました。
ご神水は薬物ではありません。「飲みさえすれば健康が得られる」と考えるのではなく、「天授のたまもの」と感謝する「こころ」を持ち、「活きたるみ神」と共に生きる「きよいこころと行い」を守り、「われ人共に生きる」「思いやりのある生き方」を守らなくては、いかにこの「天授のご神水」を拝戴してもよい結果は得られません。神に感謝の心をもてない人には、いかに多量に飲用しても、それは単なる「山沢の水」以上の何ものでもありません。

御神水屋:歌碑歌碑
大和山神歌:『 湧きいづる神の恵みの真清水も 誠なければ山沢の水 』

松の館・喜寿の館

松の館(まつのやかた)松の館(まつのやかた)
教祖の古希の祝いとして、信者より寄進されました。
昭和28年(1953年)建立。

喜寿の館(きじゅのやかた)喜寿の館(きじゅのやかた)
何の装飾もない八畳一間。教祖終焉の場所。
昭和35年(1960年)建立。

尊祖堂・供養堂(そんそどう・くようどう)

尊祖堂(そんそどう)供養堂(くようどう)尊祖堂・供養堂は、昭和6年春から布教に出た教祖が、信者に現れた多くの霊体験から、先祖の霊を祀ることによって諸々の悩みが解決される事を深く悟り、昭和8年(1933年)に尊祖堂、9年(1934年)に供養堂を建立しました。
今現在、私達が生きているのは先祖がいらしたからで、その命のつながりがあってこその命だから、先祖の御霊(みたま)に感謝申し上げて慰霊するということが大切で、慰霊をすることは積善の行であり、徳を積むことになります。

七つの石像

七つの石像七つの石像これは仏像でもご神体でもなく、勿論墓石でもありません。
これらは、教祖が、12ヵ年の修行中に神示を頂き、五色川での水行の時に目に止まった自然石に宗教界の先人達の似姿を感じとって建てた石像です。
これらが一体何を意味しているのかというと、教祖が「今更自分のようなものが、神さまのお仕事にお手伝い申し上げて新しい教派を開いても、どれだけの仕事が出来るだろうか」という求道心の動揺に突き当たった時に、「世界に宗教はたくさんあるが、どの宗教も神さまのおしぐみ(計画)のもとに、その時代その地域に人心を導く役目があって、この地上に遣わされたものであるから、世の中の正しい宗教は同じ目標を目指して進んでいる限り、最後にはひとつのものになる時期が必ず到来する」と悟りました。
だから「自分もまたその一つのものを目指して歩いていかなければならないし、その仕事の規模の大小は少しも問うところではない」と考えました。
世界の正しい宗教は、同じ精神に発して同じ帰着点を目指すものであり、自分もまたこの精神を受け継いで、人の世の浄めに力を尽くそうと決意しました。そして、その象徴としてこれらの像を立てました。「他人の宗教心を正しく尊重しなくてはならない。他宗を誹謗してはいけない、教団はお互いに尊敬しあい、手を携えて世界平和という共通の目的に到達するように努力しなければならない」と諭しました。

光霊殿(こうれいでん)

光霊殿外観

光霊殿外観

光霊殿外観

光霊殿外観

光霊殿内部

光霊殿内部

大和山光霊殿は昭和33年(1958年)秋に青森県知事認可の共同納骨施設として建立され、年毎の慰霊祭を厳修してきましたが、平成9年1月、初代教主 田澤康三郎(法名:大和小松風)の神化(しんげ)により、次代教主を継承した第二代教主 田澤豊弘(法名:大和松光)が神慮を深く悟り、「新光霊殿」の 奉建事業に着手しました。平成13年(2001年)6月1日に新たな光霊殿として落慶しました。
光霊殿の眼目は、神化した教祖(法名:大和松風)、教祖令室 きさ(法名:大和北玉)、歴代教主を神霊として奉斎し、鑽仰・敬慕・信遵・報恩・感謝の至誠をささげることにあります。更には、光霊として奥津城に納骨合祀された御霊が御教祖教主の許に永久に魂鎮まり給う処であり、世界の有縁無縁の御霊の鎮魂祈願をする処です。
「萬人一宇」の神示の通り、深遠な思想を顕現した施設です。

平和祈念塔(へいわきねんとう)

平和祈念塔(へいわきねんとう)白亜の球体は地球を、これを支えている二本の支柱は合掌を表現し、その基底には教団の紋章を配し、それぞれの寸法は教祖の修行の年数と悟りを意味しています。
また、この台座の部分は松風塾高校で行っている、「古切手による平和の手紙運動」の保管庫にもなっています。